小さな魚屋の店の真上の住まいですから、
そこに十数人、みんな寄り添って寝ていましたね。

石原
本日はご多用のところ、本当にありがとうございます。
28才で市議、36才で道議、42才で衆議と順々にステージアップなさって来られて、政界40年です。
先生は昭和21年(1946年)今津家の5男としてお生まれになられたそうですが。
今津
8人兄弟の下から2番目です。旭川の中心部にある「拓殖市場」内の家で生まれました。あの市場の2階が住まいで、祖母と両親と兄弟の他に、店で働いている中学出の若いおにいちゃんが4~5人、更にお手伝いさんも同居していました。小さな魚屋の店の真上の住まいですから、そこに十数人、みんな寄り添って寝ていましたね。
石原
その魚屋はお父様が創業者ですか。
今津
オヤジは2代目で、去年(2013年)がちょうど開店100年目でした。
石原
ほお~。
今津
もとは岐阜の大垣駅前の魚屋だったようですが、祖父は何かの事情があって北海道に来ざるを得なくなったようです。北海道に来た人にはそのような人も多かったと聞いていますよ。オヤジが17才の時、その祖父が他人の保証をしたことで裁判になってしまい、その裁判所の中で亡くなったということも聞きました。
石原
「魚の今津」といえば高級魚を扱う店として有名ですが、魚屋としてはこの地域のハシリですか。
今津
小売の魚屋としては北海道でも1~2番の売り上げを誇る店でした。同じ「たくしょく市場」には「山吉西館」という魚屋さんがあり、このお店の人たちもものすごく頑張り屋でウチと競っていました。年末の買い物客でごったがえす市場の通路の中を、僕らはその店をのぞきに行っては、お客はどちらが多いか少ないかと子供ながらに胸をドキドキさせながら店を手伝っていましたよ。
石原
はあ
今津
その頃の「たくしょく市場」には八百屋さんが数軒、花屋やおかず屋やもち屋さんもあって、どこの家族もみんな市場の2階に住んでいました。みんな子だくさんだから、子供だけでもものすごい数で、遊び仲間には不自由しなかったですよね~。明るいうちに家に帰ったら親に怒られました。商売の邪魔になるというので5円くれるんです。これで遊んどいでとね。今の緑橋通りには市電が通っていましてね。その周辺にはマーケットがあって、そこでアメや駄菓子など買ったりして、なんだかんだと遊びながら陽が暮れるのを待って、もういいだろうと見計らってから家に帰りましたよ。
石原
小学校は日章小学校ですね。
今津
街の中央地域の子供は中央小学校と日章小学校に別れて入りました。今は1学年2学級ですがその頃は5学級もあり、桂組、柏組、楓組、桜組などクラス名は木の名でした。
石原
はあ
今津
北都中学校に入った時は13クラスです。1クラスに55人も詰め込まれましてね。その頃は中央地区の常磐、北門、聖園の3中学校をあわせると1学年だけで45クラスもありました。でも今では各校が3クラス位になってしまって、来年には3校が合併して市立中央中学校になるようです。

<第2回>竜馬は静かに「生死は天命にある」と言ったと書いてあるのですよ。